欲望とユートピア

 しんと静かな黄昏の中を、バスが走っていく。
 「あ。」
 窓際に座ったユキネが小さく声を上げた。不思議に思ったノドカはその顔を覗きこみ、視線が外に向いていることに気付く。
 「ああ、雪虫。」
「うん。」
 雪虫が、本物の雪のように飛び散っていた。街灯の少ないこの田舎道でも、何故だかはっきりと小さな雪虫が二人の目に映った。
 「雪、降るのかなあ。」
「降るかもねえ。」
 今年は暖冬だと誰かが言っていたけれど、十二月に入って急に冷え込んできた。雲が厚くなり、昼間でも薄暗い。呼吸をすると、いつの間にそうなったのか、息は白く上がっていく。
 「冬っぽくなったね。」
「はあ、憂鬱だなあ。」
 ノドカは大袈裟に体をのけぞり、ユキネにもたれかかった。ユキネは身じろぎせず、ふふふという笑い声だけを発した。外は寒そうだけれどここは暖かい、とノドカは目を閉じた。
 バスの中には珍しく誰もおらず、ユキネとノドカは四角い箱の中の片隅にしまわれたようだった。運転手がいることさえ忘れそうなほど、静まりかえっていた。ときどき、バスのブレーキの音だけが響いた。
 「ねえ、ユートピアって、どんなところだと思う?」
 不意にユキネが声をかけてきた。
 「ユートピア?」
 ノドカは突然の質問に、間抜けな声を出した。
 今日の世界史の授業で、そういえばそんなような単語を聞いたような気がした。ノドカは授業の内容をまったく覚えておらず、理想郷、という当て字しか頭に浮かばない。うーん、と唸って考えるふりをしたけれど、すぐに元の姿勢に戻った。
 「人間も動物もみんな仲良く、花が沢山咲いていそうな暖かい場所で、争いもなく、平和に暮らしている、みたいな場所?」
「まったく授業聞いてなかったね。」
「う…すいません。」
 ユキネは怒った様子も呆れた様子もなく、相変わらず優しげな微笑を浮かべた。少しだけ振動する肩に揺られて、ノドカも笑った。
 「そういうのが理想郷ってイメージだよね。」
「でしょ。」
「うん。私も最初、アフリカのサバンナみたいなところを思い浮かべた。」
「ああ、そんな感じ。」
「でもさ、それだと争いはあるわけでしょ。」
「何の。」
「弱肉強食の。」
「なるほど。」
「やっぱり、殺しあったり、憎みあったり、っていうのがないのが、理想なのかなあ。」
「そりゃそうでしょ。」
 ユキネは首だけを動かし、ゆっくりと流れていく外の景色を眺めた。毎日飽きるくらい同じ景色を見ているはずなのに、暗闇にだんだんと染まっていく町は、はじめて訪れた未知の世界のようだ。
 「それって、愛っていう言葉がない世界なのかもね。」
「ええ?」
 ノドカはユキネの言っている意味がわからずに、目だけでユキネを探った。ユキネはずっと窓に顔を向けていて、表情がちっともわからない。
 「食欲とか、そういう欲求が全部なくて、誰とも争わなくていいなら、誰かを愛しているなんて言う必要もなくて、愛なんて言葉、いらないんだよ。」
 ユキネは感情のこもらない声で淡々と喋りおえると、目を閉じてノドカに身を寄せた。
 ノドカはそっとユキネの顔を覗きこんだ。眉間に少しばかり力が入り、固く瞼が閉じられている。ノドカも、さっきよりもユキネの近くへと体を寄せた。ユキネとノドカの手が、半分ばかり触れ合った。バスが走りだしてしばらく経つというのに、ユキネの手はまだひどく冷たかった。
 二人の体が、バスと共に同時に揺れる。
 ノドカは閉じられた目の奥で、愛という言葉のない世界を想像してみる。本当の愛のある世界を想像してみる。
 珍しく、バスが一度も止まらない。このまま停車ボタンを押さなければ、永遠に走りつづけそうだ。暗闇を延々と走るこのバスの中がユートピアになっていくような気さえ、ノドカはした。
 目を開ける。バスはまだ走っている。ライトが道を照らしていく。
 雪が、降りそうだ。



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