降りしきる夜の匂い

 小さな世界のすべての中で、私たちは、大きな世界を見ていたんだ。

 近田が片付けの当番を終えて、校門のほうへ歩いていくと、小野原がすっくりと佇んでいた。近田と小野原は同じ剣道部だが、片付けの当番ではない小野原は、とうに帰ってしまっていたと思っていた。それなのに、小野原がいる。
 「いっしょに帰ろうか」
小野原は、にかーっと笑い、近田に声をかけた。
 だいぶ待っていたのだろう、この寒い空気の中で、小野原の鼻はすっかり赤くなっている。
 近田が、おん、と中途半端に返事をする前に、小野原は進行方向にさっさかと歩き出した。遅れまい、と近田は小走りに小野原の隣りに追いついた。
 「今日、どうだったよ?」
追いついた近田に顔を向けて、小野原は聞いた。
「片付け?別に、いつもと同じっしょ。ああ、満知が転んだわ。はっはっ、」
「ははっ、なんで片づけで転ぶの。あいかわらずだなあ」
「やー、掃除してたら、コケッ、とさ」
「んふふ。それが満知らしいと言えばそうなんだけど」
「まあねえ」
会話はすぐに途切れ、ただの赤信号さえ二人には長く感じられた。近田も、小野原も、白い息を、すーい、と吐き、信号を睨んだ。
 信号が青く、ぱっと変わった瞬間、二人ともで長く呼気した。その場にはいてもたってもいられない、という感じに、いつもより速い歩調で横断歩道を渡る。
 少し歩いたところで、小野原はふと気付いたように歩くのを止めた。近田は小野原を振り向いて、不思議そうに見つめた。
「ちょっと、待ってて」
小野原はそう言って、明るく、きりり、と建っているコンビニの中にするりと飲み込まれた。数分も経たないうちに、手の中にあたたかいものを持って飛び出してきた。
 「はい」
小野原は言いながら、肉まんを半分に割り、一方を自分の口の中に、もう一方を近田に渡した。
 おん、とまた曖昧な返事をしつつ、近田は壮烈に湯気を吐く肉まんを、そっと掴んだ。
 一口、少しだけ口に含む。二口、三口。がつ、がつ、と全部を飲み下す。いつもより、しょっぱい。
 「なんだよ、突然。奢り?」
いつもの小野原ならば、決して他人に奢る、などという行為をする人ではない。金の貸し借りが嫌いなのだ。その小野原が、金のことを何も言わず、近田に奢った。たとえ百円の肉まんだとしても、それを半分こにしたとしても、近田にとっては、とてつもなく奇妙な行為に思えた。
「今日だけ、特別にね」
小野原は、ゆるく笑う。
 近田はもう知らぬふりもできずに、俯いた。
「…お前、転校するんだってね」
「…なんだ。知ってたの」
小野原は、少しほっとしたように、息を吐いた。
「明日から、行かないから、学校」
「なんだよ、こんな時期に突然…、」
「…ん、…とうさんが、ね、」
「お父さん?」
「…ん、うん、そうだね」
今度は、小野原が笑顔のまま俯いた。
 二人は、向かい合ったまま、突っ立った。けれど、顔を見ることはできなかった。どちらも、黒い地面の上にある、小さな自分の足を見つめていた。汚れた白いはずのスニーカーは、あまりにも頼りなかった。
 「やだねえ、子どもは大人に振り回されて。嫌になるね」
近田はその場の空気を壊すように、思い切り顔を上げて、小野原に話しかけた。小野原も顔を上げ、搾り出して笑った。
「本当、嫌になる」
「だろ」
「うん。でも、それでも生きていかなきゃいけないんだなあ。これから。生きていくし、生きてやるし、生きまくってやるし、」
「…うん、」
 二人は、どちらからともなく、空を見上げた。
「今日は、星がきれいだね」
「そうだね」
近田は、そう言いながら、小野原のほうを見ていた。小野原の口から吐き出される、長く白く細い息の行方を、じっと見つめた。



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