お似合いです。

 終業のベルが鳴る。わざわざ顔を上げて時計を見るけれど、確認しなくても時刻はわかりきっている。がた、がた、と数人が立ち上がる。私もタイミングを計って立ち上がった。
「おつかれさまでしたー。」
数人の声に紛れるように私も挨拶をして、数人の波に乗って帰る。毎日、同じ流れに乗る。
 「ちょっとFさん。」
帰ろうとしていた彼女を、上司が呼び止めた。彼女の流れだけが、いつも堰き止められる。
「これ、どういうこと?」
「え、あの、」
「どう見ても間違っているよね?Fさん、目悪いの?」
「いえ、」
「じゃあ、頭がおかしいんだね。そうじゃなきゃ、こんなことしないもんね。」
「あの、」
「言い訳すんなよ。今日中に直せ。」
「あ、はい…」
 上司とFさんの会話をバックミュージックに、彼女以外の契約社員は皆、彼女を置き去りにしてロッカーへ向かう。勿論、私も。
 誰も、彼女のことについて、口にしない。何もなかったかのように、足並み揃えて着替えを始める。
 そう、たぶん、ここにいる人たちにとって、それ以外正解はない。
 彼女がもし死んだとしたら、正解は変わるのか、というと、変わりはしないだろう。断罪されるのは、上司だけだと、私たちは暗に知っている。
 シャツのボタンを外しながら、この前の休日、病院の前で彼女を見かけたことを思い出していた。よく晴れた日に、青白い顔が浮かんでいた。
 淡々と私服を身に付けていき、もうすぐ終わるのだな、と心の中で呟く。何が、終わるのか。終わるわけじゃなくて、きっと、彼女じゃない誰かがターゲットにされるだけだ。いつも始まるばかりで、終わりなんて見えない。学校のいじめがなくならないように、大人のいじめもなくならない。
 次は私なのかもしれない、そう思って、明日また出勤してくる彼女を見て、ほっとする。
 新しく買ったブラウスのボタンが小さくて、なかなか上手くかけられない。永遠に終わらない気がしてきたけれど、いつの間にかすべてかけ終わっていた。
 「Yちゃんのそのブラウス、可愛いねえ。」
ロッカーが隣で、入社した年が一緒の同僚が声をかけてきた。何の邪気もない、溌剌とした声だ。
「あ、うん。この前、買ったんだ。可愛いよね。」
「うん。いいなあ。Yちゃん、いっつも可愛い服着てるよねえ。」
「そう?」
私はどぎまぎしつつも、自分の服装を確認した。
 ブラウスは、白くて何の変哲もないように見えるけれど、薄手の生地と計算されつくされたデザインが美しい。それに合わせたスカートも、ただのフレアスカートに見えていながら、横糸と縦糸の絶妙な素材の違いで、完璧なラインと色合いを作り出している。
 店員から教えられたうんちくを同僚に伝えようかと思ったら、彼女の中でもう既に話題は切り替わり、次の話に入ろうとしていた。
「そういや、Yちゃん、今度の飲み会出席する?」
私は瞬間言葉を呑みこんだけれど、すぐ返事をするために息を吸った。
「あー、今月は、ちょっと、ピンチで、」
「そうなんだー。私も迷ってたんだけど、でもなんか、違う課の人も来るんだって。」
「へえ。」
「それで行っとこうかなあ、って。Yちゃんは、やっぱ行かない?」
「うーん、今回は、」
「そっかー。まあ、仕方ないね。」
何が仕方ないのかわからないが、私は笑って誤魔化した。
 着替えを終えた人から、順々に帰っていく。ブラウスに手間取っていた私と、その私と会話をしていた同僚も、最後尾でロッカーから出た。いまだに、Fさんはロッカーに姿を現してさえいない。皆、気付いているのか、気付いていないのか、私にはわからない。
 外に出ると、今日の天気をはじめて知るような気になる。よく、晴れていた。気持ちがすっとするほど、青空が眩しい。数か月前よりも色が澄んでいて、空は少しだけ高くなった。思わず、目を細めた。上手く歩けなさそうだ、と思ったのに、隣にいた同僚は軽い足取りでさっさと前進していった。私は慌てて、後についていく。
 「そうそう、そういえばさ、聞いた?」
同僚が急に振り返り、満面の笑みを浮かべた。
 私は何故か、ぞっとする。随分昔に、彼女のような目をした人たちを、大勢前にした。世界から色がなくなっていって、そういう目だけが、ぎらぎらと光る。
 後退りしそうになった足を止めて、同僚の方へ駆けた。彼女の笑顔は、貼りついたように変わらない。
「何、何の話。」
「課長の話。」
「課長?」
 課長で思いつく話は、さっきのFさんとのやりとりだけだった。ついに上層部の誰かにばれたのだろうか。私が質問しようとする、その前に、彼女はにやりと口の端を上げて、言葉を発した。
「課長、離婚するんだって。」
「え。りこん。」
あまりの予想外の単語に、私は間の抜けた声を出した。顔も間抜けになっていたのか、同僚は声を上げて笑った。
「Yちゃん、全然知らなかったの。」
「うん。」
「結構噂になってるよー。」
「そうなの。」
私は同僚の顔を見ながら、ぼんやりと課長の姿を思い浮かべていた。
 Fさんを怒鳴る。Fさんを怒鳴る。Fさんを怒鳴る。
 その声しか思い出せず、顔も体型も思い出せなかった。それ以外の課長が、目に入ってこないせいだった。普段はどんな人だったろうか。
 「でもさあ、離婚して当然だよねえ。」
「え、なんで。」
「えー。なんでって。あんなだよ。絶対、家でDVとかしてるって。」
彼女は、けらけらと笑って言った。
 それは無邪気で、無責任で、結局のところ無関心な言葉だった。
 私は苦笑いをして、そうかなあ、と肯定も否定もできなかった。
 「あ、私、バスだから、」
「あれ、Yちゃんも地下鉄じゃなかったっけ。」
「バスの方が本当は近いんだ。いつも時間合わなくて。」
「ああ、なるほどね。じゃあ、私はここで。」
「うん。お疲れ様。」
「お疲れー。また明日ね。」
彼女は明るい笑顔で、今しがたの会話も忘れたように、手を振って地下への階段を軽快に下りていった。私は、小さく手を振り返した。
 家の最寄りのバス停も、地下鉄の駅も、そう大して変わらない距離だ。せいぜい十分くらいの差だ。十分以上やってこないバスを待つよりも、すぐに来る地下鉄に乗った方が、本当は早く帰れる。
 そんなぐだぐだした説明は、たぶん彼女にする必要はないだろう。
 白日の下で、バスを待つ。じりじりと焦げていく肌を無視し、じっと自分の足元に視線を落とした。地味なパンプス、隣に並ぶ革靴の列、時折混じるスニーカー。何もかも目に入らぬように、じっとバスをひたすら待った。
 誰も、次が自分の番だなんて、思いもしない。だって、誰だってそんな列に自分が並んでいる自覚なんて、ない。
 甲高いブザーの音が突然響き、はっとした。バスが到着していた。いつの間にか先頭になっていた私は、急いで車内に乗りこんだ。
 混みあうバスの中で、どうにか立ち位置を確保する。やっぱり地下鉄にすればよかったか、と思うけれど、同僚の笑顔を思い出して、これでよかった、と思い直す。発車の揺れで、どこからかわからないくらい、全身を押された。息を止めて、ぎゅっと吊り革を握る。体勢が整うと、ふっと窓に映る自分の姿が見えた。ひどい顔と髪型だった。
 久々にバスからの風景を見た。平日だというのに、どう見ても遊びにきているだろう人たちが溢れていた。この人たちは、いったい何をしている人なのだろう。平日が休みの仕事は、私が思うよりも沢山あるのかもしれない。楽しそうに笑って、楽しそうに横断歩道を渡っていく。スーツを着た、のろのろと歩いている人が、あっという間に追い越されていった。
 バスは信号に従い、列を乱さずに走っていく。歩いている人の姿は、すぐに見えなくなってしまった。私はただ真っ直ぐに、自分の目の前の窓の外だけをひたすら見ていた。
 ゆらゆらと揺れる。外はそんなに暑かっただろうか。単に、バスの振動のせいだろうか。
 はたと視界が固定される。ちょうど、バスがデパートの前に停車した。バーゲンの名残が街中に漂っている中で、ウィンドウの中には既に、秋がやってきていた。
 薄手のコート、深緑色のスカート、フェルトのベレー帽、ツイードのセットアップ、ストール、ブーツ…
 私は視線を動かさずに、降車ボタンを押した。頭上から、次止まります、という平坦な声が聞こえてきて、私は目を丸くした。指の先では、ボタンが紫色に光りつづけていて、またやってしまった、と思う。もう一度押してみても、取り消すことはできない。バスは、道路を一本渡った先のバス停に止まる準備を、着々と始めていた。
 間違った、と言えばそれで終わりなのに、私はできない。信号が青に変わり、バスは着実にバス停へと近付き、いつもの停車位置にきっちりと止まった。続々と乗りこんでくる人たちに押されながら、私は出口へと向かう。すいませんすいません、とひたすら口にして、ようやくバスから降りた。
 私が降りても、バスに乗りこむ人がまだまだいた。本当に、全員乗りきれるのか。ぼうっとその光景を見ていたら、ブザーが鳴り響き、プシュー、と音をたててバスのドアは閉まった。ぎゅうぎゅうに膨れあがったバスは、さっきよりもなんだか鈍重に見える。左右に揺れながら出発していくバスの後ろ姿を見送る。なんで、降りてしまったのか。降りたのは、私一人だけだった。始発からまだ二つ目のバス停なのだから、当たり前だ。
 湿度の高い空気で、頭が朦朧としてきた。脳裏に、さっき目に入ってきた秋服が蘇り、無心で足を動かした。
 信号待ちをしながら、銀行口座の残高を思い浮かべた。今月使ったクレジットカードの金額を計算する。今月の給料を使いきっていることは、計算しなくてもわかっていた。
 それでも、信号が青になると、私の体はデパートに向かっていた。夕方のデパートの入り口には照明が灯り、柔らかな光できらびやかに人を迎え入れてくれる。知らず知らずのうちに、足取りが軽くなった。少しずつ、自分の体が浮いていくような気分にまでなる。
 一階に並ぶ化粧品売り場の匂いに、いつもながらくらくらする。甘くて、粉っぽい匂いの中で、綺麗に整えられた赤い唇がそこら中に浮かんでいる。鍛えあげられた角度を保った口角。目の合った店員に、私も笑い返してみるけれど、ぎこちない。一階にいると怖くなって、急いでエスカレーターに飛び乗った。
 呼吸を整え、婦人服売り場に降り立つと、少しだけ緊張感のある静けさが広がった。完全に無音ではないのに、妙にしんとしている。  私は、ゆっくりと足を踏み出す。何を探し求めているわけでもないけれど、目移りするほど並べられた服たちの合間を縫って歩いていく。
 何でもいい。いや、何もかもが、欲しい。
 ぐるりと一周し、もう一回見直していく。
 不意に、赤色のカーディガンに目が留まった。真っ赤というわけでもなく、朱色がかってもいない、深い赤は、まさにこれからの季節に着るためにある服だ。もう少し涼しくなったらこのブラウスの上に羽織れば、そう想像するだけで胸は高鳴った。カーディガンにそっと手を触れると、ふわりと優しく肌を撫ぜた。
 「羽織ってみられますか。」
強くも弱くもない、ちょうどいい声音と、完璧な微笑で、店員は近付いてきた。
 着たら終わりだ、と頭の中で告げるのを聞こえないふりをして、はい、と即座に返事をした。
 店員が赤い服を広げていくのを、じっくりと見ていた。私のために広げられた服の内側をこちらに向けられると、一瞬ぞくっとする。言いしれない優越感を、体中で感じる。
 私は店員に背中を向けて、カーディガンを着せてもらう。空気を孕み、腕と肩にフィットしていく。触り心地の良さから予感はしていたけれど、着心地も良い。にやけてくる顔を我慢しながら、私は鏡の前に立った。
 顔を上げて、鏡の中の自分を真正面に捉えると、どうしてだか違和感を覚えた。最上の着心地と、秋らしい色合いで、どう考えても買わずにはいられない商品だ、私が着ていなければ。小首を傾げ、自然と眉間に皺が寄った。
 「いかがですか。」
「あー…、着心地は、良いです。」
「ですよねえ。カシミヤが混ざっていますので、とても滑らかで、」
店員の説明を上の空で聞きながら、もう一度自分の姿を見た。まじまじと、見つめた。片手でそっと腕を撫でると、たしかに気持ちよくて、うっとりとする。それなのに、それとはちぐはぐな、はっきり言えば、まったくその服に似合っていない人間がそこに立っている。
 「…なんか、違う気が、するんですけど、」
私は声を搾りだした。
 店員は一瞬目を開き、私と同じように鏡を覗きこんだ。しばらく、沈黙があった。
 「お色違いをお持ちしましょうか。」
「え。」
「お客様の肌のお色でしたら、こちらではなくて、ええと、少々お待ちいただけますか。」
「あ、はい。」
店員は、にこっ、と鏡の中の私に笑いかけ、きびきびとバックヤードに入っていった。
 私は、所在なさげな鏡の中の人物と対面した。
 この色がよかったのに。
 鏡に映る人に訴えてみても、似合っていないその人は残念な顔をする以外ない。
 店員は決して、似合っていない、などとは言わない。私が傷付くことを、一切言わない。いつだって、私を受け入れてくれる。褒めてくれさえする。私の存在を認めてくれる人が、いつだってデパートで待ってくれている。
 大袈裟だ、と会社の同僚は笑うだろうか。
 「お待たせいたしました。」
朗らかな声がして、私は振り返る。
「こちらの色がお似合いになると思います。」
店員はそう笑顔で言って、私の嫌いな黄色いカーディガンを目の前で開いて見せた。



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