まよいもり

 迷った、と思った瞬間にはもう遅くて、私は似たようなコンクリートの塀に囲まれていた。
 「…あー。あーあー。」
 がっくりと目線を落とすと、手に掴んでいる地図が見えた。手の汗を含んでか、しわくちゃになっている。
 鈴彦が書いた地図によれば、駅からは一本道しかなく、そこを真っ直ぐ行けば、鈴彦に会えることになっている。が、改めて見てみると、地図というよりはただの落書きにしか見えない。電車の絵から、猫(首輪に鈴が付いている)に矢印が、少しだけうねりながら伸びている。このうねりが、曲がり角だったのだろうか。鈴彦の描くものは、よくわからない。
 振り返ってみると、たしかに右にも左にも道はあるようだ。どちらに行くとしても、コンクリートの塀が続いているだけに見えるが。
 「んがー。」
 わけのわからない唸り声をあげて、地図を両手で引っぱった。
 残暑の日差しは、なんだか粘っこい。コンクリートは暑苦しさが増す。睨みつけた猫と目が合って、私はまた唸る。
 一昨日、鈴彦から手紙が届いた。土曜日暇だったら来て、という手紙と地図だけが同封してあった。なんという、ざっくばらん。木曜の夜に手紙を読み、そのまま寝て起きて、金曜日には鈴彦に会いにいくことを決めていた私も私だが。
 事前に電話をしておけばよかったのかもしれない。今時こんな手紙一つで人と待ち合わすなんて、ありえない話だ。昔の人はよくもまあ、決闘だの逢引だのとできたものだ。鈴彦は無茶苦茶な人なのだ。
 歩くのも面倒になった私は、塀に背を預けて、空を見上げた。ぼんやりと浮かんだ飛行機雲に、明日は雨かしら、などと思う。
 鈴彦には、丸三年会っていない。ときどき電話をすることはあった。メールも、ときどきする。そうやって、ときどき、連絡を取り合うくらいで、会うことはしなかった。会えないわけでもなかった。遠いところとは思っていたけれど、今日電車に乗ってみたらあっという間に駅に着いていた。
 やっぱり無茶苦茶だなあ、と思った。
 会おうとすれば、会えたはずだった。どうして三年会わなかったのだろう。三年なんてあっという間だ。この先の三年も、きっと何とも思わずに過ごしてしまう。一生のうちの三年間程度、鈴彦と会わないことは、どうということでもない。でも、今日の一日ぐらいは、会えてもいい。
 鈴彦も、私も、無茶苦茶すぎる。
 私は鞄の中から、携帯電話を取り出した。鈴彦に電話をかける。
 「…もしもし。」
「もしもし。今、どこ。」
「わかんない。」
「えー。」
「わけわかんないよ、これじゃあ。」
「えー。嘘。」
「嘘じゃないよ。鈴彦、ちゃんと絵の勉強してんの。」
「何言ってんの、してるよ。えー。嘘。」
「嘘嘘言うなよ。全然、私には、わかんないよ。」
 鈴彦の絵を、いくつ見てきただろう。数え切れないほどの絵を私は見てきたのに、いつもわけがわからなかった。他の皆は、上手いねえとか、感動しちゃったとか、ため息をこぼしているそばで、私は首を傾げて眉間に皺を寄せた。
 今日くらい、三年の時間と会いたいという気持ちで、鈴彦の絵(であり地図)を理解できると信じたかった。けれど、どうにも私にはできないようだ。
 「わかんないから、教えてよ。」
「えー。そう言われてもなあ。」
「だいたい、私が電話しなかったらどうするつもりだったの。」
「えー。そのときはそのときじゃん。」
「何それ。そもそも手紙読んだの、一昨日だよ。遅いよ。」
「ねー。」
「ねーじゃなくて。鈴彦、わけわかんないよ。」
「ねー、本当に。」
「何。」
「俺も俺が、わけわかんない。」
 電話の向こうにいる鈴彦は、おかしそうに笑っていた。
 「じゃあ、待ってて。」
「は。」
「今から駅に行くから、駅で待ってて。」
「あんな人の多いところで。見つけられないよ。」
「大丈夫大丈夫。」
「三年で、私、変わったよ。わかんないと思うよ。」
「えー。髪型とか、そんなもんでしょう。大丈夫だって。」
「そうだけど。根拠のない自信だなあ。」
「まあまあ。待っててよ。」
「うん。」
 電話を切ると、耳の中がツンと痛んだ。
 私は、鈴彦の地図を見つめた。相変わらずわけがわからない。
 真っ直ぐ歩いてきたのだから、とりあえず真っ直ぐ戻れば、駅に行けるだろう。待ってても来なければ、そのときはそのとき、だろう。
 日差しはまだ強く、肌を焼き付けてくるけれど、私は歩きはじめることにした。
 たぶん、鈴彦の絵のことはわからなくても、鈴彦のことはわかるだろう。 私にも、そんな根拠のない自信があった。



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