透明な水をください

 電車は動きはじめた。さっきの停車も乱暴だとは思ったけれど、発車もスムーズではなく、嫌な揺れ方だ。ガクン、と体が傾いて、変なところに力が入った。つり革を掴む手にも余計な力が入り、腕が痛む。新人の運転手なのだろうか。誰だってはじめは上手くやれないのだろうけど、だからといって、優しい気持ちに今はなれない。
 踏んばるために、足を肩幅に開いた。そんなことをせずに、さっき空いた席に座ればいいのだが、妙な意地をはって、私は立ちつづけた。空席は、いつまでも空いたままだった。
 体がまた揺れた。電車の走行は既に安定していて、この揺れは電車のせいではないと、数秒後に気付いた。どうやら貧血らしい。チカチカと目の中が光る。
 そういえば、何も食べていないのだった。朝食を、とかではない。昨日も、一昨日も、たぶん、その前の日も何も食べていないはずだ。
 口の中だけではない、体中が渇ききっていた。それは頭での理解を越えて、体が訴えていた。わかっている。そんなことは、働きが鈍くなっている頭でも、よくわかっていた。
 それでもかたくなに、私は何も食べなかった。水を口に含めば、気持ちが悪くなり、飲みこむこともできずに吐くだけだった。何も受けつけなかった。すべてが、嫌だった。唐突な拒否反応に、自分が理解に苦しんだ。 あらゆるものを、汚い、と感じるようになっていた。誰かが作ったもの、誰かが触れたもの、人間が介在したもの。この世の食べ物は、すべて人間が絡んでいた。水は大丈夫か、と思ったのに、やっぱり駄目だった。結局のところ、人は人から食べ物を受け取っているのだ。あまりにも、おぞましいことだった。
 なんだか持っているつり革も気持ち悪く感じられてきて、じわじわと手に変な汗が出てくる。
 少しだけ、目を閉じた。空腹が続くと、よく眠れなくなる、というのは本当だった。眠いのに、眠れない。ずっと体が重く、だるかった。つり革に全体重を預けると、腕が攣りそうなほど痛かった。
 ふっと、頬に風が当たった。乱暴な停車にも気付かないほど、ぼうっとしていたらしい。目を開けると、外から入る陽の光に、目が眩んだ。晴れているということに、今更はっとした。こんなにも良い天気の日に、こんなにも重い体を引きずって、いったい私はどこへ向かうというのだ。仕事か。
 もう一度、風が強く吹いた。逆立った前髪を直しながら、なんとなく目を下にやると、足元に名前も知らない どこにでもあるような花が一つ、落ちていた。土に生え、生き生きとした姿は既になく、枯れきって、もう生気と呼べるものは見られない。雑草だろうその花に、ドライフラワーという価値はなく、ただ単純に、それは枯れているのだった。
 足に当たり、カサリ、と音を立てたように思えるが、気のせいだろう。茶色く、渇ききった、もはや花としての命のないそれから、私は目が離せなかった。
 ああ。水をください。
 私は生き返ることのないそれのために、願った。決してもう吸収することのできないだろう水を、それにあげたかった。
 神様、どうか水をください。どうか、透明な水をください。
 それは、私の足元から、じっとして動かない。私も、動けなかった。私も、それも、限界に来ていた。。水分の足りない私の目には、涙も浮かばない。



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