みんみんみん

 蝉の声が、朦朧と聞こえていた。私の横顔を、撫ぜていた。
 夏が、押し寄せてきているのだと、そのとき気づいた。
 けれど、私には、季節の変わり目などどうでもよく、ただ肌に感じる暑さだけが、だるく思われていた。
 その日は、友人のトミちゃんが、私の部屋に、やってきていた。
 「あんた、いつまで、そうやってるつもり?」
トミちゃんは、私の部屋のドアを開けるなり、そう言った。
 その頃の私は、4ヶ月近く、まったく、学校へ足を踏み入れていなかった。
 これといった理由はなかった。なんとなく、ベッドに転がるほうが、気持ちがよかった。なんとなく、部屋で本を読んでいるほうが、気分がよかった。
 その日も例にもれず、ベッドで横になりながら本を読んでいた。そのため、トミちゃんは、左回転して見えた。
 「こんな暑い日に学校に行くなんて、ただの馬鹿だよ。」
私は、読んでもいない本で、顔を隠して、言った。
「そういうのは、理由にならないわよ。春から、そうしてるでしょ。暑くなんて、なかったでしょ。何、考えてんのよ。」
 トミちゃんは、大げさにため息をついた。
 何も考えてなんか、いなかった。自分の欲求に、素直に生きてみたら、いつのまにやら、こんなふうだった。それだけだったのだ。
 私は、じっと、このままでいたかったのだ。
 「いいかげんにしな。シロも心配してる。」
トミちゃんのその言葉を聞いて、ふらりと目線をトミちゃんに移した。
 「シロは、関係ない。」
 シロ、というのは、私が2ヶ月前から付き合うことになった男だった。4ヶ月前から学校に行かず、それからずっと電話をしてきた男。2ヶ月前に、告白してきた男。4ヶ月前から、きっとずっと、私のことしか考えてなかったのか、と考えたら、かわいそうに思えた。
 だから、付き合うことにした。
 シロは、よく笑っていた。私としゃべるときなんかは、とくに。(しゃべるといっても、電話が多かったのだが。)ただの照れ隠しだったのか。それとも、何か思っていたのか。
 「このことに、シロは、関係ない。」
私は、噛みしめるように、もう一度、言った。
 トミちゃんは、もう一度大きく、ため息をついた。
 そして言った。
「あんたたち、別れたほうがいいよ。」
 頭の中に、みんみんみん、と蝉の声だけが、反芻していた。
 私は、何も言わず、じっと、トミちゃんの顔を見た。トミちゃんの言うことが、よくわからなかった。
 「なに?」
数秒、間を空けて、私は問うた。
 トミちゃんは、少し、しかめ面をして、そして、少し、悲しそうな目をした。
 「だから、別れたほうが、いいよ。」
「どうして?」
今度は、間髪いれずに、聞いた。
 トミちゃんは、私を足先から頭まで眺めながら、考えてるふうだった。
 「あんたたちは、同情で、つながっているから。」
 同情。
 私は、見もしていないのに、本のページを捲り、蝉の声を聞き続けた。
 規則的のような、でも、不規則なような。
 みんみん。みん。みん。みんみん。
 この部屋の中に、この時間の中に、シロの存在を入れたくなかった。それは、確かに、そう思っていた。だから、この気持ちが同情、と言われても、否定はできない、けれど、そうだと言うこともできない。
 でも、シロは、私に、同情しているのだろうか。
 本のページを、すらすらと、捲った。
 トミちゃんは、それから、担任の話をし、数学の授業の話をし、席替えの話をした。
 どれも、私には、架空のお話のように聞こえた。きれいに、頭を通り抜けていってしまった。
 私が話を聞いていないとわかると、トミちゃんは、じゃあね、と言って、部屋を出ていった。
 トミちゃんは、いつもと変わらないので、いつもおかしくなった。トミちゃんが帰ったあとは、いつでも、くくく、と笑いがこみ上げてきた。
 蝉の声が、さらに、こだました。
 たいして木が生えているわけでもないのに、毎夏、蝉の声は、大きくなっているような気がした。
 本を閉じて、窓の外を、見上げた。
 雲の流れは速く、青空は、キーンと透き通っていた。
 夕立がくる、空合いだった。
 夕立が好きだった。今でも、それは変わらない。
 強い風、雷、重なる雲。
 ふふふ、と笑みがこぼれた。
 また、本を開いて、読み始めた。とっくに、この本を読み終わってはいたけれど、何度も何度も、開いては、読んだ。どのページが出たかで、その日を、占うのだ。
 コンコン。
 ドアの音が響いた。
 本に夢中で、最初、空耳だと思ったが、コンコン、少し経ってからまた、コンコン、と鳴ったので、現実の音だとわかった。
 「いますよ。」
部屋に誰かが来るときは、誰であろうと、ドアを叩くようになっていた。それが、母であろうと、父であろうと。ドアを開けたとき、誰が立っていてもいいように、私は常に、いますよ、と敬語で答えていた。
 ドアが開いた瞬間に、それは無意味な敬語となった。
 シロが、そこにいた。
 ひさしぶり。そう言って、シロは、私の寝るベッドから、少し離れたところに座った。
 「ひさしぶり。」
ぼそりと、私も呟いた。
 シロがいる。シロがすわっている。
 「なんで、いるの?」
私は言った。
 シロは、ちょっとだけ首を傾げて、目を細めた。なんとなく、笑っていたようにも、見えた。
 「なんでって。理由を聞かれると、困るんだけど。」
そう言ったあと、シロは、ちゃんとした、と言うには合わない、笑いをした。
「そっか。」
自分の質問にも、シロの答えにも、似つかわしくない相槌を、私は打った。
 私たちは、私は、寝転がったまま、シロは、微動だにせず座ったまま、見つめあった。
 みんみんみん。みん。
 一週間だけの、蝉の叫びが、体中で、響いた。
 シロの額には、汗が光っていて、頬に、つーっと、一筋、流れ落ちていた。
 走って、ここにやってきたんだろうか。ただたんに、シロは、汗っかきなんだろうか。
 ぼーっと、考えていた。シロのこと。
 じーっと、見ていた。シロのこと。
 ふと、シロが口を開いた。開いたはいいが、声は、出てこなかった。不思議に思い、なに?と私は聞いた。
 「いや。なんでもないんだけど。」
シロは、少し俯いた。
 逆接で終わらせておいて、何もないことは、なかっただろうに。
 私は、ちょっとだけ、身を上げて、シロが何かを言うのを待ったが、何も出てこないので、そのまままた、ベッドにぽすっと、落ちた。
 遠くで、雷が、鳴ったようだった。気づいたら、カーテンも閉めていないのに、外が暗かった。
 「シロ、雨、降るよ。」
シロは、はっとして、顔を上げた。
 前髪で隠れていた目が、なんだか、濡れているようだった。
 「そうだね。」
シロは、微笑んだ。
 いつも、思っていた。シロの笑顔は、どうして、こんなにも、妙なんだろうか。
 そう。妙だった。奇妙。違和感。
 いつも、そう思っていた。
 そのときになって、トミちゃんの、同情、という言葉を思い出した。
 あの妙な笑顔は、私に対しての、同情からだったのだろうか。
 窓の外が、光った。
 一、二、三…。
 雷が光ったあと、私は、数を数えた。雷は、だんだんと、近づいてきていた。
 窓に、ぽつぽつと、水滴がついた。
 「シロ。帰らないと、雨に、濡れるよ。」
「そうだね。」
また、シロは、微笑んだ。
 傘がないのだろうか。シロは、なかなか、立たなかった。
 「シロ。帰らないと。」
「うん。」
 シロの口元は、いつでも笑んでいて、瞼は、いつでも伏せられていた。
 必死に、何かを、隠していたにちがいなかった。
 バラバラバラ、と雨の音が、激しくなった。
 蝉の声は、いつのまにか、消えていた。
 同情。みんみんみん。同情。みんみんみん。
 その言葉と、蝉の鳴き声が、脳内に、くり返された。
 「じゃあ、帰る。」
 シロは、そう言って、すくりと立ち上がった。
 そして、笑った。
 シロが背中を向けたので、私は静かに、手を伸ばした。
 背の高いシロ。やわらかい髪をしたシロ。おさがりの鞄を持ったシロ。
 伸ばしても、伸ばしても、そのシロは、近くはならなかった。
 きゅっと、手を握り、諦めて、私は、自分の髪の毛を触った。
 「じゃあ。またね。」
シロは、やっぱり、笑いながら、ドアから出ていこうとした。
 ドアが閉まりそうな瞬間、私は何故か、シロ、と呼んだ。
 シロの笑顔が一瞬消えたけれど、すぐに元に戻った。
「なに?」
シロが、やさしく聞いた。
 言いたいことがあれば、言えばいい。
 私が言わなければいけない台詞は、それでしかなかったはずだ。
 「私たちは、どうして、別れないんだろうか?」
私の口からは、それしか、出てこなかった。
 シロの目が、丸くなった。ふわふわと、視線を、上にやっていた。
 「それは、」
シロは、上から、下へ、私の方へと、視線を向けた。
 「それは、ミクが、別れる、って言わないからだよ。」
 シロは、ふっと、消えるような、笑いをした。
 この夕立の中、帰ったのなら、本当に、消滅してしまいそうだった。
 そう言って、シロは、何も言わずに、ドアから出ていってしまった。
 私が、言わなければ、いけない。別れる、と。
 私の頭の中で、ぐるぐると、別れる、という言葉が駆け巡った。
 別れる。
 果たして、別れる、という言葉の意味は、何だったのだろうか。
 それだけを考えていたら、いつのまにか、また、蝉の声が聞こえてきた。窓から見える木、だけが、湿って、雫を落としていた。
 「みん。みん。みん。」
蝉に呼応するように、私は唱えた。
「みん。みん。みん。」
 そうしていたら、きっと、私たちは、別れることができないんだろう、と、ぷかりと浮かんできた。
 あしたも、あさっても、そのまたあしたも、私たちは、前と変わらずに、しゃべり続けるのだろう、と確信をもった。
 「みん。みん。みん。」
 そう思ったら、ずずっと眠くなり、私は、体をベッドに投げ出して、深い眠りについた。
 夏は、いまだ、続いている。



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