花屋のミドリさん

 ミドリさんに出会ったのは、僕が学校に行かなくなって、しばらく経った頃だった。
 学校に行かないことに、いじめられていた、とかそういうわかりやすい理由はなかった。友達も(少なかったけれども)いたし、授業に追いつけないこともなかった。学校や先生が嫌いだったのか、と聞かれれば、そうでもない、と答えるしかない。ただ、なんとなく、だった。なんとなく行きたくなくなって、ちょっと一回休んでみたら、もう一回休みたくなった。もう一回休んだら、もう一回休んでいて、いつのまにかこうして公園で一日中過ごしている。制服を着ずにブラブラしていても案外ばれないもので、補導とかされちゃうのかな、なんて思っていたが、まったくそんなことはない。僕が単に老けているだけなのか、僕みたいな人が増えたから誰も気にしないのか、大人を見上げてみても、ちっともわからない。彼らの顔色は、僕を見つけたって変わらない。なんか悲しい。どっちの理由にしても、なんとなく嫌だ。
 そうやってぶつぶつと毎日を過ごしていたときに、ミドリさんは突然僕の目の前に立っていた。
 ミドリさん、っていうのは、僕が勝手につけたあだ名だ。ミドリさんはいつもものすごく濃くて深い緑色のコートを着ていて、だから、ミドリさん。面と向かって、ミドリさん、と呼んでも、別に嫌な顔をするわけでもなく、肯定しているようでもなかった。僕はミドリさんの本当の名前を聞くことを逸してしまったけれど、特に不便ではなかった。ミドリさんは、ミドリさんでしかなかった。
 「あんた、学校サボってんの?」
 はじめてミドリさんが僕に言った言葉が、それだ。そうして、ニヤニヤと笑った。そのニヤニヤ笑いは、決して僕を責めるようなものではなくて、ただただ面白がっているだけ、という感じだった。学校に行かなくなってから、声をかけられたのははじめてで、しかも声をかけてきたのはちょっと変わっている人だ。緑色のコート、って。僕はちょっと、気がゆるんだのかもしれない。
 「サボっているわけじゃないです。ただ、行ってないだけです。」
「それをサボり、って言うんだぞ、お坊ちゃん。」
 お坊ちゃんとは心外だ。僕は、お坊ちゃんと言われるような生活をしてきた記憶はない。
 ああ、でも、こんな晴れた昼間の明るい暖かい公園に、僕みたいな歳の男が一人でベンチに座っていたら、そりゃいいご身分、なのかもしれない。
 「あんた、最近ずっとここに座ってるな。」
「…え、」
「カン違いするな。あたし、あそこ、道路の向かいっ側、あの花屋で働いてるんだ。あんた、変な顔してずっとここに座ってんだろ。気持ち悪いことこの上ない。」
 むっとした。初対面でそんなことを言われるのは、それこそ心外というものだ。
 「自分こそ。そんな緑色のコートなんて着ちゃって。気持ち悪い。」
 季節はもう、すっかり春の真ん中で、ぶ厚いコートを着るような人はいない。
 「うるさい。あんたに言われる筋合いはない。」
「僕だって。」
 お互いに、フン、と顔を背けた。子どもの喧嘩みたいだ。僕はまだ子どもだけど。
 「ま、あんたみたいな男、花に興味ないだろ。気が向いたら遊びにくればいい。」
 そう言ってミドリさんは、またニヤニヤと笑って、足音もたてないで去っていった。緑色のコートの裾が揺れていた。
 変な人。ミドリさんの第一印象は、それだった。
 そうして仲良くなってからの印象も、変な人。
 ドカン、と大きな音がした、と思ったら、隣りにはミドリさんがいきなり座っていた。
 あの日はじめて会ってからニ、三週間。僕はやっぱり毎日のように公園に来ていて、ベンチに座っていた。変化したことと言えば、あれからミドリさんがよく現れるようになった、ということだけだ。でも、これは大きな変化だった。今まで一人きりで過ごしていた昼間に、緑色の人間が加わるのだ。これは、ひどい。
 「あんたは、なんで学校サボってるんだ?」
 最初に出会ったときにしてもいいような質問を、ミドリさんは今更僕にぶつけてきた。今更聞かれるとは思ってもいなくて、僕は少し戸惑った。
 「サボってるんじゃなくて、行っていないだけで、」
「どっちでもいい。じゃあ、なんで行かないんだ?」
「…なんとなく、としか言えないんですけど。」
「ふうん。そうか。」
「そうか、って、それだけ?」
「なんだ。本当は何かあるのか?」
「いや、ないです。」
「なら、もういいだろ。」
「…はい。」
 僕は道路の向かいにある花屋をぼんやりと見つめた。ミドリさんがあそこで働いている姿を、僕には想像できなかった。沢山の花に囲まれているミドリさん。すごい、浮いている。
 「ミドリさんは、なんで緑色のコートを着ているんですか?」
「これは…。なんとなく、だ…。」
「…じゃあ、なんで花屋で働いているんですか?」
「…。なんとなく。」
「…ふうん。」
「嘘だ。あたしにはちゃんと明確な理由がある。」
「なんで、嘘つくんですか。何ですか、明確な理由?」
「好きだからだ。」
「は?」
「花が好きだからだ。それ以外に理由はない。」
 ミドリさんは、前を向いたまま、勇ましい表情をしていた。たぶん、自分がそういう顔になっていることに、ミドリさんは気付いていない。
 夕暮れの赤さが映っているだけでなく、僕の顔は赤くなってきて、下を向いた。僕の手は、ミドリさんと同じくらいの大きさだった。夕暮れの赤さの中では、緑色のコートはとてつもなくミスマッチで、恥ずかしくて僕はそれらを見れなかった。

 七月並みの暑さが続いている日だった。
 「あんた、日射病になるぞ、そんな座ってたら。」
 ミドリさんは言いながら、趣味の悪い斑模様のキャップを僕に被せた。
 「うえー、何これ。やめてくださいよ。大丈夫です、そんなに体、弱くないし。」
「あ、そう。そうやって強がってると、いつか倒れるぞ。」
 ミドリさんは、ちょっと拗ねて、僕からキャップを奪い、自分で被った。緑色のコートに、黄土色と茶色の斑模様のキャップ。これは、あまりにも、だ。このセンスは、あまりセンスのない僕でさえも、疑ってしまう。
 「ミドリさん、やっぱり、そのキャップ、貰います。」
 僕は笑いを堪えながら言った。
 「ほら。日光を侮っちゃいかん。被れ被れ。」
 ミドリさんは、さっきとは別人のように笑顔になり、僕にぎゅうとキャップを被せた。
 「痛いんですけど。」
「今日は、このキャップを渡しに来ただけなんだ。あんたに似合うと思ってな。予想どおり、似合うな。」
 ミドリさんだけが満足そうに、何度も何度も頷いた。似合うわけがないじゃないか。
 そのまま立ち上がり、笑顔で帰っていった。緑色のコートの裾が、その日もゆらゆらしていた。こんな暑くなっても、ミドリさんはいまだにコートを着ていた。
 僕は静かにミドリさんを見送った。
 僕は気付いていた。ミドリさんだって、人で昼間を過ごしていた。
 斑模様のキャップが、やたらに重い。
 翌日、公園に行くと、既にミドリさんがベンチに座っていた。
 「どうしたんですか、ミドリさん。珍しいですね。」
 「…あんた、あのキャップ被ってこなかったのか。」
 ミドリさんは、笑顔の僕の質問に答えることもなく、逆に僕に質問をしてきた。
 「あ。あー。今日は、曇っているから。」
 冗談じゃない。あのキャップを平気で被ってくるヤツがいたら、是非お会いしたい。
 「そうか。そうだな。」
 ミドリさんは、そっと目線を下げた。目線の先には、ミドリさんの自分の手があって、その手の中にはそのへんで買ったのだろうジュースの缶が包まれていた。
 「ミドリさん、どうしたんですか。」
 この立ち位置、出会ったときと反対だな、なんて思いながら、僕は言った。
 「…ああ。」
 ミドリさんは、じっと自分の手の中を見続けていた。ちっとも動こうとしない。
 「ミドリさん?」
 もう一度。
 「ミドリさん、ってば。」
 もう一回。
 「ミドリさーん?」
 やっと、ミドリさんが顔を上げた。とてもゆっくりと。ミドリさんからは音が発生しないような、そのぐらいスムーズな動作で。
 僕は、ミドリさんの目の大きさを、黒目の奇麗さを、はじめて知った。いつも横にばかり座っていたから、見ていなかった。ミドリさんって、こんな顔をしていただろうか。
 ミドリさんは立ち上がって、僕の手の中に空き缶を渡してきた。驚いて、空き缶を見てみると、飲み口に何かが挿してある。
 「何、何ですか、ミドリさん。」
「これ、あんたに、やろうと思ったんだ。」
「え、これ、え、ツクシ?まだ生えてるんだ…。」
「ああ。あんたらしい、と思ってな。」
「どういうことですか。季節外れなのが、僕らしい、ってこと?ミドリさんって、そうやっていつも僕のこと馬鹿にしますけど、」
「じゃあな、お坊ちゃん。」
「だからー、お坊ちゃんじゃないって、」
 ミドリさんは、一度だけ僕の手を外側から強く包んで、さっさとその場からいなくなってしまった。笑いも、泣きも、怒りも、しないで。
 僕は何故か瞳が潤んできて、ミドリさんの方を見ることができなかった。緑色のコートの端が少し見えただけで、ミドリさんがどういう顔をしていなくなったのか、ちらとも知ることができなかった。
 そう、ミドリさんは、本当にいなくなってしまったのだ。
 鈍感なのだろうか、僕は。一週間、ミドリさんが来なくなっても、別段気にもしなかった。仕事が忙しいのかな、と呑気に思っていた。変だなあ、とようやく思ったのは、花屋が休みになってからだった。
 そのときの僕は、ミドリさんを毎日の一部として考えるようになっていた。ベンチの隣りに座ることを当然と思っていたし、来なくても明日には会えることを当然と思っていた。僕は、いつのまにか、一人になれなくなっていた。
 僕は鈍感な上に、単純なのだろうか。
 仕事をしているミドリさんをからかってやろう、という気持ちももちろんあったけれど、それよりも僕はただ、ミドリさんに会いたくなっていた。それだけで僕は、人生初の花屋に一人で突入しようとしている。
 やっぱり、単純だ。
 花屋の前で、外に出ている花に恥ずかしそうにしたり、奥を覗き込んだり、完全な不審者の僕が気になったのか、店員であろうおばさんが、つかつかとやってきた。逃げたくなったが、僕の足は動かなかった。恥ずかしさも、恐怖感も、あった。同時に、高揚と、好奇心もあった。僕は全部がないまぜになった感情で、心臓の音の速さを耳の中で聞いた。
 おばさんは真面目くさった顔から突然、にこっと営業用スマイルをした。
 「いらっしゃいませ。」
 おばさんおばさん、なんて言ってしまったが、近くまできたその人は、化粧のせいだったのだろう、年齢がいまいち判別できなかった。この人の化粧は上手いのか下手なのか、濃いのか濃すぎるのか(薄いということは決してないことは僕にもわかる)、なんだか薄気味の悪い生き物のように見えた。そういえば、ミドリさんは化粧なんてしていなかった気がする。
 「どういったものをお探しですか?プレゼント?」
 おばさん(この際、不明なのでこの呼び方にする)は僕のことなど意に介せず、営業用スマイル、営業用トーク、営業用フレンドリーさを駆使して僕に近付いてきた。
 「あ、いや、あの…、」
 僕はおばさんに圧倒されながらも、僕は当初の目的を達成しようと空気を吸った。ここまで恥ずかしい思いをしておいて、何もできなかったら、本当にしょうもない。
 思い切り息をした瞬間に、はた、と僕は気付いた。
 ミドリさんの本当の名前は、何だ?
 「えーと、あの、」
 このとき、本当に逃げようかと思った。でも、それでも僕を押しとどめたのは、あのときのミドリさんの横顔で、ミドリさんの目で、ミドリさんの手だった。
 「あの、人を探していて。緑色のコートを着た人、ここで働いていますよね?」
 おばさんの顔が、一瞬にして真顔になった。それがどういう感情を表しているのか、見当がつかず、僕は戸惑った。
 「あなた、あの子の知り合い?」
「え、と、知り合いっていうか、」
「あんな子、働かせられるわけないじゃない。」
「…どういうことですか?」
「…何も知らないの?」
 そう、僕は、ミドリさんのことを、何も知らない。
 「あの子ねえ、本当、手癖が悪くて。」
「え?」
「あなた、この季節にあんなぶ厚いコート着てる人、変だと思わなかったの?あんな子働かせたら、赤字よ、赤字。」
 おばさんは、まるで面白い話を話すかのように、ふいーっと息を吐いた。
 「まあ、あの子の家、お金があるみたいだから、余計に払ってくれていたけど、こう何度も続いちゃあね…。と、嫌だ。今の話は忘れて。この花あげるから、さっさと帰ってちょうだい。ほら、ほら。」
 おばさんは、僕に無理矢理マリーゴールドの鉢植えを押し付け、急かすように道路の方へ僕の体を動かした。咽そうなほど、濃すぎるオレンジの間に、公園があった。
 真正面に、いつも僕が座っているベンチが見えた。誰もいなかった。
 ミドリさんはコートの中に花畑を作ったあと、どんな気持ちで道路の向こう側を見たのだろう。
 「お坊ちゃんお坊ちゃん、て、ミドリさんのほうがお嬢さんじゃないか。」

 僕は今日もベンチに寝ている。
 太陽がギラギラ、もう夏だ。僕は、あの斑模様のキャップを被る。
 僕は、何もわかっていない。だけど、何もかもわかっているような気がする。最近、ミドリさんを思い出すたびに、そう思う。僕の浅はかなお坊ちゃん的な思考なんだろう。
 マリーゴールドは、世話をしなかったから、すぐに枯れた。来年になったら、もう一度世話をしてみたい。もちろん、僕はお金を払う。あの花屋では、購入しないけれど。
 雲で太陽が隠れた。太陽は力強く、影を落とす。
 僕はたぶん、いつか、学校に行くだろう。いつか、っていつだ、ってみんな聞くんだろう。そんなこと、どうでもいい。いつか、は僕が知っているから、いいんだ。そのいつかの瞬間は、僕にしかやってこないんだから、いいんだ。
 僕は、ベンチに座りなおした。じっと前を見つめる。
 あのときのミドリさんみたいに、強い瞳で、僕は前進していけるだろうか。



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