ヒドリさん
「会いたいんですが。」と、ヒドリさんに言うと、「いいですよ。」と、軽く返ってきた。そんなものか、と思うが、いけないいけない、と思い直す。
私とヒドリさんは、ただの友人である。
いつもの喫茶店に、いつもと変わらず夕刻に、待ち合わせた。
私が行くと、ヒドリさんはすでに来ている。私だって、遅れないように、と十分前には着くようにしているのだが。いったい、ヒドリさんは、何分前にここに来ているのか。
ヒドリさんは、私を見つけると、微笑んで手招きをした。
白いシャツ、黒いスカート。ヒドリさんは、似たような服しか着ない。
「お久しぶりです。」
私は、なるたけ声をやわらかくして言いながら、ヒドリさんの隣りに座った。ヒドリさんはどういうわけか、喫茶店ではカウンターに座る。
「お久しぶりです、チナツさん。春以来でしょうか?」
ヒドリさんは、誰よりも完璧に微笑む。私は、とても騙されている気分になってしまう。
「春以来ですね。何してました?」
「さあ、特には。いつもと変わりませんよ。」
「そうですか。私も変わりません。」
ヒドリさんとは、何年間もこうして会っている。それでも、私たちの距離は、出会った頃と、さほど変化がない。会わない期間が長かろうが、私たちは遠くなったりしない。
もちろん、近くもならない、ということだが。
日が、だんだんと沈んでいく。喫茶店の中の色が、少しずつ暗くなる。私とヒドリさんは、あまり喋らず、コーヒーをおかわりする。
いつから、こうするようになったのだろう、と考えてみる。離ればなれになる、とか、そんな理由からだったろうか。毎日会っていても、たまにしか会わなくなっても、私たちは変わりがないというのに。
会っても、ろくに話題もないのをわかっている。ヒドリさんと会う、という行為が生産的ではない、ということも、気付きたくないが、わかりきっている。
けれど、会いたくなるのだから、しょうがない。
ヒドリさんは、たまに電話をしてきてくれるが、会おう、とは決して言わない。だから、しょうがない。こうするより他がない。
「ヒドリさん。」
「ん?」
ヒドリさん。そう呼んでみるけれど、話すことは、何もない。
いや、話さなければいけないことがある。それが、喉もとまで、きている。ヒドリさんだって、そう感じているはずだ。
でも、決して、声に発してはいけないのだと、私は、その形になっていた息を、呑む。一所懸命に。
「チナツさん?どうしたんですか?」
「…いえ。…今度は、いつ会えるでしょう?」
「はは、そんなことですか。いつでもですよ。会いたいときなら。」
ヒドリさんは、私を真っすぐに見て、微笑む。
そうなんだ。私が、会いたいときなら、いつでも会えるのだ。私が、会いたい、と言えば、ヒドリさんは、いいですよ、と答える。それのくり返しだ。私たちは、それをくり返していく。
それ以下も、それ以上も、何も起こさない。
「チナツさん、そろそろ帰りますか。」
「そうですね。」
私は、私の笑顔で、ヒドリさんを、騙していることができているんだろうか。
「ときに、チナツさん、」
喫茶店を出て、ヒドリさんが、突然言う。
「会いたいんですが、と言うのはよろしくないですよ。そんなに不安がることは、何もないでしょう。」
ヒドリさんが、笑わない。
私は、棒立ちになる。
「それじゃあ、チナツさん。また。」
「あ。はい、また。」
ヒドリさんは、小さく手を振って、帰っていった。私よりも数段早い歩調で。
ぽつり、ぽつり、とゆっくり足を進めた。もう、闇が濃い。
夜空を見上げても、星は見えない。街灯が少ないこの道でさえ、見えない。ヒドリさんの、広がったスカートみたいだ。
笑わなかったヒドリさんを、思い描いてみた。とても似合わない、美しい顔をしていたな、と思う。
「私は、不安ですよ、ヒドリさん。」
夜空のヒドリさんのスカートは、絶対に答えない。
きっと、答えない。ヒドリさんは、私のために、答えない。
私も、ヒドリさんのために、問わない。
帰ろう。
そして、またいつか会う日まで。
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