灯火

 日が暮れていく空を、ベランダからぼんやりと見る。ピンク色に染まりはじめた空の下の部分が、ビルの陰から覗く。
 辞めた、と打ち明けたはずの煙草を一本取りだして、唇に挟んだ。本心は、辞める気など一切ない。ぷかあ、と大口を開けて、煙をふわふわと頭上に浮かべた。
 どうして、煙草を辞めろ、男は言うのだろう。体のためだとか、将来の子供のためだとか、お前のためだと恩着せがましく御託を並べる。何故、女には命令していい、と思うのか。懇願してみろ、そう私は言いたくなる。もしくは、女なんかが煙草を吸っていることが嫌いだ、とはっきり言えばいいのだ。
 嫌われたくない、と思って辞めるだろうと期待しているのだとしたら、ちゃんちゃらおかしい。男というものは、馬鹿だろう。
 女には、嫌われたくなくても辞められないものがあるのだ。男が笑おうとも、怒鳴ろうとも。
 ファッションも、美容も、ギャンブルも、スイーツも、アイドルも、漫画も、勿論煙草も、あらゆるものに、女は中毒を起こす。
 男に中毒を起こす女だって、現にいるのだ。彼なしでは生きられない、と心底信じている。
 どこで、どうやって覚めたのだろう。
 彼なしでも、私は全然生きていける。
 煙草を、じっくりと呑む。だんだんと暗く、やがて群青になろうとする空に、煙草の先が明るく灯る。美しく、弱い光だ。
 ついつい、ベランダの柵で火を消してしまう。見つかると、また大家にも彼にも怒られるだろう。気安めに、さっと手の平で払い落としておいた。
 空はもうすっかり藍色に染まっていた。星が見えた、と思ったけれど、たぶん、あれは飛行機だろう。明滅を繰り返して、私の視界からいなくなった。
 今、唐突に、気まぐれで彼がここに訪れて、私を抱きしめたとしたら、それは私たち二人にとって、不幸のはじまりになるのだろう。数分は残る、服や髪に残りつづける臭いが、不運の引鉄となって。
 でも、私一人にとっては、不幸でも不運でもないんじゃないか。幸福のはじまりだとさえ、呼べるかもしれない。
 部屋の中に膝をつき、腕を伸ばして灰皿を引き寄せた。手の汗でくしゃくしゃに捩れた吸殻を、ようやくのこと投げ捨てた。そのまま、足だけを外に出し、床にうつ伏せた。ひんやりと、頬が冷えていく。
 目に入った携帯電話を、意味もなく触る。ぼんやりと、待受画面の着信履歴に並ぶ彼の名前を、私はただただ眺めつづけた。



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