犬とサイレン
果物を齧る君の歯が、ヤニで汚れている。
あの頃は真っ白だった気がする、というのは、曖昧になる記憶のせいだろうか。それとも、美化していく記憶のせいだろうか。
小指の爪を噛む。無意識の苛立ち。
「それ、やめろって。」
「何が。」
「それ。爪噛むの。昔から。」
「ああ…。」
君は、何を覚えている。私の何を覚えていて、何を忘れている。
私はもうすっかり君のことを忘れたと思っていたけれど、君を見たら、君だとわかった。
名前は、思い出せない。
あのとき、階下では子どもの泣き叫ぶ声が聞こえました。あと、足音。
「お前、何してんの。」
「何も。特には。」
「何それ。どうやって食ってんの。」
「ダンナが、稼いでくれる。」
「あー。あーあー、なるほどね。女って、いいねえ。」
「喧嘩売ってんの。」
君は笑った。八重歯が見えた。牙のように、誰よりも鋭い。
可愛かったはずなのに、今は可愛くない。
「そっちは、何してんの。」
「んー。何も。」
「どうやって食ってんのよ。」
「ナイショ。」
「何、ヒモなの。」
「違ぇし。断じて、違う。」
「あっそう。」
それから、パトカーの音が聞こえて。来た、って、思いました。私のところに。目の前が、赤かったんです。
空は晴れていて、午後の風は柔らかかった。頬を滑るように、空気は優しかった。
「まあ、元気そうで何よりだわ。」
君は言って、ザッザッとアスファルトを蹴った。舗装されてなかった、と思っていたけれど、いつの間にかきちんとした道路になっている。
あれは、いつだったのだろうか。
「うん。元気だよ。」
「ん。俺も元気。」
「そりゃ、よかった。」
「よかったよかった。」
君も、私も、笑った。忘れてしまったことに対して、笑った。そのほうが都合がよいし、きっとだからこそ今日、私たちはたまたま出くわせたんだろう。
逃げよう、と思ったんです。でも、逃げられなかったんです。わかりません。そうしたら、子どもの声が、大きくなって。あ、連れていかれる、って。あの子、どうなったんでしょうか。元気でしょうか。死んだんでしょうか。
君の髪の毛が揺れた。私のほうに、きちんと向き直った君がいた。
「今度、同窓会とか、しようぜ。近所にいてもさ、全然俺たちみたいに会えないんだからさ。」
「そうだね。」
「うん。」
「幹事できんの。」
「柄じゃねぇなあ。」
君は両手をポケットに突っ込んで、少しいじけた。
君の可愛かったところをちょっと思い出して、私は笑った。
「お前も協力しろよなあ。」
「うんうん。わかった。」
「そんじゃあ、まあ。またな。」
「うん。じゃあね。」
手を振って、別れた。あのときも、そうだったような気がする。
そんなふうに思いながら、やっぱり君の名前が思い出せなくて、私は泣きたいような笑いたいような、変な顔になった。
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