赤い鼻緒

 木枯らし、ぴゅうぴゅう。足元、からんころん。
 夕空を見ると、思い出す。あの頃。私と、あの子のこと。

 私は、小さい頃、下駄を履かされていた。誰もが、靴を履いているというこのご時世に、私だけが下駄、である。
 母親が好んだところらしく、どこに行くにも履かされていた。特に疑問をもたなかった私だが、しかし、周囲の人にとって、私の足元は、どうやら奇妙なものであるらしかった。
 幼稚園にまで、下駄を履いていったものだから、子どもたちのからかいを幾度となく、受けた。それよりも難であったのが、大人たちの目であった。大人たちは、それを見て、一度は微笑むものの、だんだんとその笑みは偽物になっていった。遠足、なぞという行事に際しては、下駄、というものは不似合いの極みであった。走りづらい、歩きにくい、その状態では、大人たちだって手をやく。私は、とても厄介な子どもだったのだ。
そのときまでは、知った人々の中にいたからよかったものの、赤の他人の中では、白い紙においての黒い点である。
 私も、なんとなく違いに気付き始め、母親に、靴を買って、と訴えてみたが、母親は頑として拒んだ。
 そんなわけで、私は、他人に嫌な目で見られながら、下駄を履き続けた。母親が亡くなる、小学生の初め頃ぐらいまで。

 下駄を見ると、ほとほと嫌気がさし、外に出る気も失せるようになっていた頃、一人の妙な女の子に出会った。とても天気がよく、幼稚園で、みんな外で遊びましょう、そう言われた日に、女の子は、私に声をかけてきた。
 名はたしか、マリちゃんであったか。よく覚えていないが、みんなからは、マリちゃん、と呼ばれていた記憶がある。
 そう、それで、マリちゃんは、私の下駄を一目見て、「可愛い。」と言ったのであった。
 この忌々しい下駄を見て、可愛い、とは。なんということだろう。
 「それなら、履いてみる?」と言うと、マリちゃんは、喜んで私の下駄を履いて、はしゃいだ。からんころん、という楽しげな音が鳴った。マリちゃんは、履いたままに、いろんな子のもとへ、走っていった。
 私はそのとき、はじめて靴というものを履いた。
 履いた瞬間、もう手放したくない、と思ってしまった。
 これが、靴、というものなのか。初めて知った、靴というものの感触が、つつつ、と自分の体に伝わってきた。
 マリちゃんのリボンのついたピンクの可愛い靴。
 私の人からひやかしを受ける下駄。
 ピンクの靴が、自分の足に、くっついていたのだ。下駄ではなく、靴が。
 私は、そのまま、走った。走って、逃げた。
 自分が、こんなにも早く走れることに、驚いた。
 後ろを振り返り、誰も追いかけてこないことを確認して、私は、じっくりと、自分の足を見た。
 ピンクの靴が、輝いて見えた。
 これはもう、私のだ。そう思った。
 そのときの私には、複雑なことを考えることができなかった。マリちゃんがそのあとどうするか、とか、私はどうやって帰るのか、とか。ただただ、靴のことだけを考えた。
 どれほどに、その頃の私が、靴を望んでいたのか、たぶん、誰にもわからない。私にも、本当にそんなに望んでいたのか、と今になっては疑問だ。
 だけれども、小さい私は、靴を履き見つめて、にやり、と笑った。

 その靴を履いたまま帰宅をすると、案の定、母親は激怒した。
 「人様の靴を盗んで。あなたには、ちゃんと履き物があるでしょう。あなたには、あなたには、あなたにはあなたの履き物が…」
母親は、くり返しくり返し、言った。
 私の頭の中で、下駄を履かない、ということよりも、人の靴を盗み履いた、ということに怒られている、と気付き、不思議になった。
 「返してきなさい。」と母親は低い声で言い放ち、私はマリちゃんの家へと向かうことになった。
 私は、いつもどおりの下駄を履き、片手で、マリちゃんの靴を持った。
ピンクの可愛い靴。どうして、私のものにはならないのだろうか。この手にあるのに、私のものじゃない。理解しがたい。
 私は、ぶんぶん、と靴を振り回しながら、闊歩した。そんなことをしても、マリちゃんの靴は、ぐちゃぐちゃになることもなく、可愛いままのぴかぴかした靴だった。
 ちょうど夕暮れ時で、カラスがうるさく鳴いていたように思う。マリちゃんの家へ行く道の途中には、田んぼがあり、何回か、靴を投げて入れてやろうか、と考えた。なんで、そんなことを考えたのかは、もうわからない。投げてやりたい、というたしかな気持ちだけが、今も残っている。
 マリちゃんの家に着くと、玄関に、マリちゃんとマリちゃんの母親が出てきた。マリちゃんはむっとした顔をし、マリちゃんの母親は申し訳なさそうな顔をしていた。
 私もたぶん、マリちゃんのせいだけでなく、靴を渡さなければならない、という気持ちもあり、むっとした顔になっていただろう。
 私は、もうここまで来たのだから、と、すっとマリちゃんの靴を、マリちゃんの目の前に差し出した。すると、マリちゃんは、ものすごいはやさで、私の手の中から靴をもぎ取った。
 そうして、同時に、私の目の前に、何かを投げ捨てた。
 からんころん。そういう音が、したような気がする。
 足元に、私があのときマリちゃんに履かせた、下駄があった。
 「ごめんなさいね。ごめんなさい、本当に、マリが…、」
そういった声が、頭上からしていた。
 私が、下駄を取り上げ、よく見ると、両足の鼻緒が、ぶちぶち、と切られていた。
 私は、ボーっ、と切れた鼻緒を見た。そうしているうちに、自分の中から不明な気持ちがあらわれ、マリちゃんの母親の止める声よりも早く、私はマリちゃんに殴りかかっていた。

 そのあとのことを、私はよく覚えていない。母親が、マリちゃんの家に行き、ひたすら謝っていたようにも思う。私のほうはというと、母親には叱られなかったのじゃなかったろうか。本当に、もうよく覚えていない。
 とりあえず、私は、今、下駄を履かない。
 母親は、今の私をどう思うだろう。この姿を見て、あなたは、怒るだろうか。
 今の私の足元を見て、嘲笑う人は、一人としていない。私は、そのことに、とても安心している。こんなにも、人目を気にせず、歩いている。母親に、見せてやりたいものだ。
 ただ、ちょっとだけ、思う。もう一度、下駄を履いてみてもいいかな、と思う。本当に、ちょっとだけ。
 母親には、言いたくないけれども。



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