花火打つ、煙立つ

 まだ冬も終わらないというのに、僕は白い空を見つめたら、夏の花火大会を思い出した。
 「リイチくん、寒いんですけど」
友人のハクジがわざとらしく、腕を交差して肩を掴み、ぶるぶるぶると体を震わせていた。僕は、ふっと笑ってしまった。
「ははっ、ごめんごめん。今すぐ閉めます」
 外は雪の降りそうな真っ白な空、きんと締まった空気、温度、冷たく人をも木をも草をも揺らす風が容赦なく吹いている。僕はそんなときに、半分だけ窓を開けて、半分だけ体を出していた。
「おまえはよく窓を開けてられんなあ。人の家をこれ以上、冷たくしないでくれる?」
「ごめんって、こたつを点けることさえケチるハクジくん」
そう言いながら、僕は後ろ手で窓をきっちりと閉めた。
 気付かなかったけれど、予想以上に部屋は寒くなっていた。なんだか申し訳なくなったので、そうっと静かに、電源の入っていないこたつに入った。
 「おまえは、ほっんとうに馬鹿だな。たしかに暖かさも大切だ。だけどな、食費を削るわけにはいかないし、水道代、ガス代だってあるし、いやあもうてんてこ舞いなわけだよ。わかるか、リイチ」
ハクジは、今どきの人には珍しい青いはんてんを着た両腕をさっと伸ばし、僕の肩をがしっと掴んだ。
「ハクジは食べすぎなんだよ」
「…うーん、そうかもしれん」
 僕はよく知っていた。三食きちんと食べるハクジが(しかもどれも大盛りで)、最近は昼食を抜いていることや、日が完全に落ちるまで電灯を点けないこと、寒さもできうる限り重ね着で防いでいること。水道もコンロも、なるべく使わないように気を遣っている。そういうことを、僕はよく知っていた。
 そのせいで、痩せの大食いだったハクジの体は、以前よりも細くなり、最近は頬がこけてきているように見えた。
 だが、どうしてそこまで節約しているのか、僕は知らない。
 「ハクジ、テレビ売ったの?」
「ん?ああ、そう。前までも全然見てなかっただろ。だから売った」
「ふうん、そう」
「そうなの」
ハクジの部屋を見回してみると、以前よりも物が減っていた。前はもう少しだけだが、ごちゃごちゃしていたはずだ。それが今は、こたつと服が入っているだろうリュック一つと普段使っている鞄と、その中身くらいしかない。
「ハクジ、これで生きていけるの?」
「は?なんだ、そりゃ。生きてんだろ、目の前に」
ハクジは眉間に皺を寄せて、ばしばしと自分の胸を叩いた。そうしてから、ハクジは締め切りが目の前に迫っているレポートに目をすぐに移した。
 「今どき、手書きのレポート出す人って、少ないよね」
「しょうがねえだろ、パソコンがないんだから」
「大学のパソコンを使え、って教授も言ってたじゃん」
「大学じゃ集中できない」
「じゃあ、僕をここに呼ぶなよ」
「それは言えているが、まあ落ち着け、リイチくん」
「落ち着くのは君のほうだよ、ハクジくん」
「はい。コントはいいから、これ教えてくれよ、リイチー」
「へいへい。しょうがないなあ…」
 僕が今日、こんな寒い部屋に呼ばれたのは理由があって、まあいわゆるレポートの手伝いってやつだけど。節約節約、と馬鹿みたいに言っているやつが、今日に限って「レポートを手伝ってくれたら、夕飯を奢ってやる」なんて言ってくるものだから、怪しみはしたけれど、よっぽどのことだと思って、来てみたのだ。
 だが、来てみれば、レポートは先週の実験のレポートで、手伝いなどしなくても、ハクジなら一人でできるようなものだった。そんなことだから、僕は部屋の中をうろうろしたり、窓を開けて空を見たりしていたのだ。
 ハクジのレポートが思ったとおり早く終わると、ハクジは家から十分のところの一杯三百九十円のラーメンを食いに行こう、と僕の意見も取り入れず、奢るものを決定した。僕が手伝った箇所は一つ、二つしかなかったわけだから、そのぐらいで十分だけれど、なんだかここにもハクジの節約ぶりが出ているようで、ちょっとおかしかった。
 食事をするとき、僕ら二人は会話をしない。食事のときは食事に集中する、というのはごく当然のことで、礼儀なのだと、二人とも決めている。
 女の子たちの織り成す楽しい会話、というのが、ただ食事に唾を吐きかけているようでどうにも耐えられない、そう言ってハクジが彼女をふったことがあるのを、僕は聞いたことがある。僕でも、さすがにそれはない。
 ハクジも僕も、そんなわけで食べる時間はものすごく短く、ラーメンとなれば、それはまた格段に早い。ハクジが僕に払ってくれた時間は、ものの十分で終わった。
 外に出てみると、空からは小さい小さい雪が、するすると降ってきていた。それはまるで、線香花火の火が落ちるように、地面を濡らした。
 「リイチ、さっきは何を考えていた?」
「へ?ラーメン食べながら?ラーメン、おいしいなあー、って、」
「あそこのラーメンはいつでもうまい。そうじゃなくて、窓を開けてたときさ、」
「ああー。空を見てた」
「それで?」
「去年の夏の花火大会、思い出してた」
「はあ?今、冬だぞ?馬鹿?」
「うるさいな。空が白くてさ、花火の煙を敷きつめたみたいだなあ、って」
「…変なの」
「変かなあ?」
「変だよ」
ハクジは、うっすらと笑って、僕の肩を叩いた。
「いたっ。なんだよ」
「なんでもねえよ。これ、」
がさがさ、っといわせて、ハクジは鞄から、さっき完成したばかりのレポートを僕のほうに突き出した。
「教授に出しててくんねえ。締め切りの日でもいいから」
「講義、休むのか?」
「ああ…ちょっと用事があってさ」
「実験、落としたら留年だぞ?」
「ははっ。まあ、そこは深い事情なんかもありましてね」
ハクジは肩を上げて、右手を左の、左手を右のはんてんの袖に入れて(恥ずかしげもなくハクジははんてんを外出時に着用する)、ずずっと鼻をすすった。そして、優しく笑ったのに、僕はとても悲しくなった。
 「なんだよ、ハクジ。意味わかんない」
「まあまあ。じゃあな」
右手だけちょっと上げて、ハクジはさっさと自分の家のほうへと向かっていった。
 僕はしばらく、ハクジのレポートを見つめて、突っ立っていた。レポートは、小さな雪の斑点を写した。
 空を見上げて、もう一度花火大会のことを、思い出した。連続して打たれる大きな花火は、それ自身の煙で隠れてしまうときがある。風の方向によって、右に吹かれたり、左に吹かれたり、こちら側を煙たくしたり。僕は、そのことをもったいない、とハクジに話した。そうするとハクジは、隠れて消えたほうが潔いじゃないか、と言った。そのときのハクジも優しく笑っていた。
 ハクジは、あんなにきれいに消えるものなんて嫌いだ、と呟いた。
 顔があまりにも冷たくなり、はっと気付くと、雪は大粒になっていた。ハクジのレポートが濡れてよれよれになってしまわないように抱え、かけあしで家路を急いだ。
 その日ではなくてもいいと思いつつも、翌朝に僕はハクジのレポートを提出しに行った。教授の研究室には、運がいいのか、教授一人がつつましく椅子に座っていた。
 「珍しいですねえ、リイチくんでしたっけ。私の研究室じゃないのに」
「あ、はあ、ええと、これを、」
ハクジのレポートを、するりと教授の目の前に差し出した。
「…ああ。ハクジくんのレポート…、」
教授は年老いて骨ばった左手でハクジのレポートを掴み、右手で自分の眼鏡を調節した。
 「ええと、それじゃあこれで、」
「リイチくん、ハクジくんから何も聞いていないんですか?」
「は?え、なん、何をですか?」
教授は首を傾げて唸り、右手で髪をぐしゃぐしゃと撫でた。この教授の考えるときの癖だ。
 教授は、ふんと首を縦に振り、僕を見すえた。
「ハクジくんはね、今月はじめ付けで退学しました」
「……」
「聞こえましたか?」
「…はい」
「それならいいです」
教授は、何がいいのかわからないが、首を縦に何度も振り、ハクジのレポートを引き出しにしまった。
 聞こえたけれど、理解することが、難しかった。ここのところ、講義を休みがちだと思ってはいた。それでも、退学、とかそういう結果を、休みがちなことと繋ぎ合わせることは、僕にはできなかった。気付けなかった。
 「あ、」
教授が突然、声を出した。
「雪が降ってきましたね」
「…はい」
「三月なのに、よく降る」
教授は窓のほうに寄って行き、手の平を窓に乗せた。
 「そうそう、ハクジくんから伝言がありました、そういえば」
忘れないように、と手帳にメモしたらしく、ばしゃばしゃと教授はページを繰った。
「ああ、ありましたよ」
教授は一回、咳払いをした。
「去年の花火大会はよかった。だそうですよ」
この人はきっと、よくても悪くても素晴らしい人生を送ってきたのだろう、そういうしわくちゃな顔で、にっこりと笑った。
 「ありがとう、ございます」
ハクジに言うべき言葉だったけれど、今はもう、届かないのだろう。それでも、深く、深く、お辞儀をした。
 なんとか、失礼しましたと会釈だけはして、僕は退室した。
 僕は、帰り道を全速力で走った。顔全体に当たる雪は重く、けれど火照る頬の上ですぐに水となった。
 泣かないように、走った。いや、泣いてなんか、いない。



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