私は星じゃない。

 銀ちゃんの部屋のベランダからは、星がよく見える。
 銀ちゃんのフルネームは星川銀二といって、名前のとおり星が好きで、自分のベランダをいたく自慢する。少しだけ街の中心部から離れたここを、いい住宅地だ、と言う。どっからどう見ても、ただの住宅地、なんだけど。
 私には星のことはよくわからない。嫌いでもないけど、好きでもないからだ。銀ちゃんの言うように、いい住宅地に住むのは不便でしかない。
 私は銀ちゃんから与えられた問題集を、着々と進めていく。銀ちゃんは、私に数学を教えてくれている。小学校の先生だけど、中学生の問題もわかるらしい。昔は僕も中学生だったからねえ、だって。
 小学校の先生なのに、銀ちゃんは星を見る。今も、白くておっきい望遠鏡で星を見ている。これ凄いんだよ、って笑って自慢してくれるけど、私にはただ単に高価なものというくらいにしか思えない。
 今日は銀ちゃんの家に来るまで、ひどく寒かった。日も暮れて、きっともっともっと寒いのに、銀ちゃんはダウンジャケットをわざわざ着てベランダに出ている。ほんのり丸くなった背中と、もくもくと立ち上る白い息とが、横目に入った。
 キリキリ、とシャープペンシルの芯が削れていく音だけが、部屋の中で響く。
 いつもなら気にならないのに、黒板を爪で引っ掻くくらいに聞こえる。簡単な方程式さえ、解けない。
 ベランダに繋がる扉を、ニ、三センチだけ開けた。
 「銀ちゃん、」
「んー…、」
「…わかんない問題が、あるんだけど。」
「んー。」
 銀ちゃんは、ゆっくりと振り向いた。
 赤くなった鼻が痛そうで、だけど笑っているから、そうでもないかもしれない。
 「じゃあ、今日は終わりにするか。」
 銀ちゃんは問題を見もせずに、言った。
 「…いいの?」
「いいよいいよ。いつも頑張りすぎなんだよ、陽子は。」
 銀ちゃんは、小学生にするみたいに私の頭を撫でた。銀ちゃんの手にすっぽり収まる自分の頭が、いやに窮屈だった。
 「早く片付けな。送るから。」
 私は離された銀ちゃんの手を見ながら、首を横に振った。
 「今日、お母さん、迎えにくるから。」
「…姉ちゃん?来るの?」
「うん。」
 銀ちゃんは少しだけ考えたふうをして、また望遠鏡のほうに行ってしまった。
 私は急いで帰りの仕度をしてから、銀ちゃんのあとを追いかけた。銀ちゃんは、さっきの続きなのか、望遠鏡にじっとしがみついている。
 「銀ちゃん、何見てんの?」
「星。」
「…ふうん。」
「…。」
「…あのね、銀ちゃん、」
「んー。」
「お母さんが、たまには家に帰ってきなさい、だって。」
 銀ちゃんは、ほんのちょっとだけ顔をしかめた。星がよく見えないのだろうか。眉間の皺のぶん、銀ちゃんの目が望遠鏡から離れた。
 「銀ちゃん?」
「…ねえ、それ、本当に姉ちゃんが言ったの?」
「え。うん。」
「…ふうん。」
 銀ちゃんはそう言うとすぐに、望遠鏡にぴったりと目をつけた。
 「ここが、僕の家なのにねえ…。」
 銀ちゃんは、独り言のように呟いた。
 私の家には、お父さんとお母さんと、それからお祖父ちゃんとお祖母ちゃん、つまりお母さんと銀ちゃんの親がいる。だから、銀ちゃんにとっても私の家は、家なんじゃないかと思う。私もお母さんもそう思っているけど、銀ちゃんにはそうじゃないらしい。銀ちゃんは、ここだけを家だと思っている。
 銀ちゃんがなんでそんなに私の家を銀ちゃんの家だと思いたくないのか、私は知らない。お母さんも銀ちゃんも、お互いのことをあまり口にしない。
 それなのに、お母さんは銀ちゃんを気にかけていて、私に伝言を頼む。今日の伝言はものすごく嬉しくて、銀ちゃんだって嬉しいはずだと思った。
 当の銀ちゃんは、望遠鏡から目も手も離さず、ちっとも嬉しそうではない。
 私は空を見上げた。星が幾つも見える。望遠鏡を覗かなくたって、こんなに星は見えるのに。
 「あ、お母さんだ。」
 ベランダから下を見ると、ぺっかりぺっかり、と車のライトが瞬いていた。薄暗い中で、お母さんは手を振っている。私が手を振り返していると、銀ちゃんは望遠鏡からやっと体を離した。
 銀ちゃんは、笑いもせずにお母さんに向かってお辞儀をした。
 寒いなあ、と思った。白い息も、空にある星も、くっきりと浮かぶ。こんなに寒くて空気がすーっとしているところで、銀ちゃんだけがぼんやりとして見える。
 「じゃあ、銀ちゃん、また来週お願いします。」
「はいはい。お願いします。」
 銀ちゃんは最後だけ、ちょっと笑った。
 ドアから出たあと、私は全速力で走った。銀ちゃんがまだベランダにいてくれたら、私の勝ちだ、と思った。理由なんてないけど、そうだと思った。
 息を切らす私を不思議そうに見つめるお母さんをそっちのけで、私は銀ちゃんの部屋のほうを見上げた。
 似たようなベランダばかりが並んで、銀ちゃんの部屋の見分けがつかない。
 私はゆっくりと呼吸を整えた。喉が痛い。
 銀ちゃんの自慢の、白いおっきい望遠鏡さえ、見えない。



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