空がとっても青いから

 雲一つない。
 私は赤信号で立ち止まる。ふと、空を見上げると、雲一つない。たったそれだけの感想が、心に浮かぶ。
 青空の中で、赤い色だけがぽっかりと異様に輝いている。本の中で読んだ、目の前が赤くなるシーン。それは、気が狂うことへの前兆だっただろうか。
 目の前の電柱には、交通事故多発地帯!という看板が、ぎちぎちと針金で巻かれていた。看板はだいぶ色褪せ、針金は錆びている。どのくらい前からここに括り付けられていたのだろう。そんなにも長い間、ここでは交通事故が多発しているというのか。交通事故に注意を喚起しているよりは、ここで交通事故に遭ってもしょうがないですよ、と言われているみたいだ。私は目の中にそれが入ってこないように、ひたすら空を見た。
 空に動きはない。雲があれば、少しでも救われるのに。
 車が猛スピードで走り去り、体に風を受けた。私は髪を咄嗟に抑える。トラックだったせいか、砂っぽい匂いが鼻を衝く。思わず目をつぶったけれど、全身を包む埃っぽい感覚は、思い過ごしにちがいない。
 そっと目を開けたのに、冷酷な文字が勢いよく飛びかかってくる。
 死にたいとか、生きたいとか、そう考えるきっかけは、実は同じようなものだと思う。髪型が決まったとか、タイミングよく青信号になったとか、風が気持ちよすぎるとか、ご飯が美味しいとか、映画が面白かったとか、人に優しくされたとか。
 空がとっても青いから、とか。
 そういう、ありふれた、些細なきっかけなのだ。他人はもっと大きな原因を探ろうとするけれど、誰も本当のところの理由を知ろうとはしない。つまらない、と吐き捨てるだろう。
 目の前を走り抜けていく車のフロントが、怒っているように見える。この渋滞で、車の中の人もきっと怒っているはずだ。どこかからクラクションが聞こえる。怒り、怒り、怒り、その感情が個の中で連続し、他と連携していく。言いようもない、恐怖だ。ここで車に轢かれたら、悲しむ人は一人もいない。迷惑がり、怒りを一点にぶつけることで、怒りの姿は変容し、また広がりつづける。怒りの中で、死んでいく。
 私は、生きたいのか死にたいのか、わからなくなる。気持ちが上ずっていくのだけが、わかる。ささくれを見つけ、急いで毟りとろうとした。
 だんだんと夢中になっていくと、突然背後で大きな音が鳴った。私の体は驚きで震え、勝手に振り向いていた。そこには、子供が転んで倒れていた。
 私も、その子供も、何が起こったのか理解できず、そのままの姿勢でしばらく静止していた。静寂が続くかと思った瞬間に、子供が泣きはじめる。周辺一帯の空気をつんざく叫び声が、私の耳の奥まで震わす。まるでサイレンが鳴り響いているかのようで、理由もない怯えに私は身動ぎできず、立ち尽くした。周囲さえ動きを止めたように見える。
 死ぬまでこの光景を眺めているのかもしれない。ぼんやりと私が思っているところに、右方から母親らしき女が走ってきた。その顔は笑いながらも怒っていて、昔見た芸能人がしていた一芸を、この女は簡単にやるのだった。
 母親は当然のように子供を抱き起こし、汚れた服をはたき、擦りむいた膝小僧に手を当てた。
 「いたいのいたいのとんでいけ。」
 私の元にまで、その声はしっかりと聞こえてきた。科学的根拠を無心に信仰する現代日本人にも、そのおまじないは有効らしい。
 いたいのいたいのとんでいけ。いたいのいたいのとんでいけ。いたいのいたいの、とんでいけ。
 私も心の中で、その子のために、何度も唱えた。その呪文は、自らのことさえも労わるように聞こえてくるのだった。
 子供は母親の顔を見ると、これまた急に泣きやみ、口を真一文字に結んだ。強がりは、強さに変わっている。母親は笑いかけ、おまじないをかけた手で、子供の頭を撫でた。子供も笑った。
 母親は躊躇なく子供の手を取り、子供も迷わずに母親の手を握った。子供はまだ、永遠にその手が自分の側にありつづけるものと疑う隙もなく、信じきっている。永遠に自分を救ってくれる手。私は繋がれた手を見つめ、二人の姿が見えなくなるまで見送った。
 私は姿勢を元に戻し、信号を見上げた。再び赤に変わっていた。赤信号は、私の動きを停止させる。
 私は木偶の坊のように立ち、じっとその風景を見た。相変わらず、空は青かった。不意に、自分の指に痛みがあることに気付いた。ちらと目を動かすと、さっき引き抜いたささくれの部分から血が出ていた。指を目の前まで持っていき、自分のものではないように、じっくりと眺める。
 いたいの、いたいの、とんでいけ。
 私は、私の手の、私の指だけのために、唱えた。
 傷は、治るだろう。自分の力で、治るのだ。それでも、誰かにおまじないをかけてほしいときが、いまだにある。永遠などない、と知っている今も。
 私は指を舐めた。温かく、血の味がする。
 生きたいか、死にたいか、そんなものはわからない。わかるはずがない。生きようとも、死のうともしていないのだから。ただ、生きることも、死ぬことも、辛いのだ。そのことだけが、私にのしかかる。
 私は首を大きく上げ、頭上を見る。空だけだ。青い空だけが見える。雲一つだって、私を救わない。誰も救わない私の手は、救われることばかり求めて、血を流している。
 もしも次に信号を見たときに青だったなら、私はきちんと歩きだそうと思う。きちんと、しっかりと、そんな生き方がこの世にあるのかわからないけれど、私はきちんと生きてみたい、そう思えるようになりたい。
 ゆっくりと深呼吸をする。空気が汚い。ゆっくりと深呼吸をもう一度する。そうして私は、視線を前へ戻していく。



BACK