コーラス

 しんとした教室の中で、ゆっくりと落ちる雨と等間隔に刻まれる時計と走る鉛筆の音が、 嫌なくらい美しくコーラスをしている。
 パタ、パタ、
 カチ、カチ、
 カリ、カリ、
 柊は、裾野の左手だけを集中して見た。何の障害もなく、鉛筆は進んでいく。
 左利きの人は書きものをしにくそうだ、と柊はずっと思っていたけれど、裾野を見ていると まったくそんな気はしなくなった。書いているものがまた、意味不明な数式であることも、 それを手伝っている。
 「はい。終わり。」
そう言って、裾野は笑顔を作り、鉛筆を置いた。やけに大きく、カタッ、という音が鳴った。
 「…すごいね、裾野さん…。助かったよ。」
「いや、別に。数学、好きだし。」
別に自慢しているわけでもなく、謙遜しているわけでもなく、本当にそうでしかないように、 言った。裾野は笑顔を作るのをやめ、頬杖をついて、右方の窓の外を眺めた。
 裾野が答えてくれた問題を、柊はじっくりと見た。少し縦に長いほっそりとした字が、 きれいに並んでいる。裾野そのもののように見える。この解答はたぶん、誰よりも、 そのへんの数学の教師よりも、教科書よりも、きちんとしたものだろう。
 そっと、裾野の横顔を盗み見た。やけに青白く、かと言って不健康そうなわけではない。 薄っすらと、頬に色味があるからかもしれない。いつも笑顔でいるのも要因だろうか。 ふっと薄められた目が、真剣に外の景色を見ていた。柊もそれにつられて、 左方を見やった。特にこれと言って珍しいものはなく、毎日毎日見ている木の緑が、 雨に濡れているだけだった。
 「何か、あった?」
「いや、別に。」
「すごい見てるから。」
「…何もないから、見てた。」
 柊と裾野が喋るのは、これが初めてに近かった。挨拶くらいはしたことがあったものの、 それ以上交流があったわけではない。裾野が突然、居残りをしている柊に付き合って 前の席に座ったことに、不可思議さがあった。裾野の言動すべてに、柊は戸惑っていた。
 「…何も、ないってことは、ないでしょう…、」
「何もないことはないけど、でも、何もないよ。」
「意味不明だよ。」
「うん。そうかも。」
裾野はホオズキが割れるように、小さく笑った。柊も、なんとなくほっとし、笑った。
 「雨、弱くなってきたし、帰ろうか。」
音をあまりたてずに、裾野は立ち上がった。
「うん。今日は本当にありがとう。本当に助かった。」
「そんなに言わなくていいよ。そこまで言われると、悪いことしたみたいだ。」
「でも、本当に助かったから。」
柊の無邪気な声に、裾野は笑い損ねた顔になった。
「こちらこそ、ありがとう。柊さんは優しいね。」
「何言ってんの。優しいのは裾野さんでしょう。」
柊はきょとんとした顔をして、裾野を見つめた。裾野は真顔で、柊を見つめた。
 「優しくなんかないよ。優しいふりをしてれば、みんな優しくしてくれるだけでしょう。」
言いながら、裾野は廊下へと歩き出した。柊は、うまく聞き取れず、焦って裾野を追いかけた。
 教室を出た瞬間、世界は白く、光の粒に溢れていた。外は、いつのまにか晴れていた。



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